THBT Germany should remove the ban on “MEIN KAMPF”

アドルフ・ヒトラーの著書である我が闘争に関するモーションです。近年ドイツでは2015年末にこの本の著作権が切れることをきっかけに、これに関する扱いが非常に議論になっていることがこのモーションの背景になっています。

議論としては、ドイツは過去の過ちを繰り返さないために、ナチ再発の芽をある程度摘む必要がある、という前提がある程度コンセンサスになると思います。その上で肯定側としては、ネオナチが我が闘争の一部を作為的に引用し、独自に自分達に都合のいい解釈を付けた上で民衆を扇動しようとしているという問題を定義できると思います。

民衆は我が闘争の実際の内容とその意味の真偽を判定することができず、また政府としても、どこの解釈を歪曲或いは捏造しているか確認しきれないため、具体的な否定が追い付かず、良いようにネオナチが動けているといった具合に見せることが可能であると思います。これに対する対応策として、ネオナチ独自の解釈に民衆の思考を独占させないため、全編注釈付きという条件の下、出版を認めるという議論ができるはずです。

また、絶対的悪とみなす教育の限界も議論となるかもしれません。もし、本当に絶対的悪ならば、国民が自由に議論しても絶対的悪になるはずであり、きちんとした議論を経て、なぜナチスが悪なのか理解した方が教育で押し付けるよりも、再発を防止できるという立論になるかと思います。

否定側としては我が闘争という著書は注釈をつけたところでドイツ国民のナチ的思想を煽ってしまうという立論が可能であると思います。現に我が闘争の中には人種的にドイツ民が最も優れているといった思想が盛り込まれており、それを如何に論理的に否定しても、感情的には乗せられ、ナチスへの抵抗が下がってしまうという話ができると思います。

また、そういった偏った感情の下での議論が生み出す結果もまた、偏ったものになるといった具合にクラッシュできるかと思います。

また、肯定側の別視点からの立論としては、我が闘争の全編内容が明らかにならないと、右寄りの政治思想がすべて受け入れられないという話もまたできるかと思います。少しでも右よりの内容を話すと野党や発言者の反対勢力から、それはナチズムじゃないか(真偽は別として)と批判が来た際に、市民は具体的に何がナチズムかわからないため、それとナチとのリンクが切れないまま、感覚的にその右寄りの意見を蹴ってしまうという話です。落としどころとしては、我が闘争の出版禁止がデモクラティックな政策決定過程の邪魔になっているというところでしょうか。

実際に日本でも、政治家が右寄りの発言をすると、あいつらは軍国主義に戻そうとしているというヤジが飛んできて、実際の軍国主義を知らない、わからない国民が良く考えないでそれに流されているといった見解もあるように、ある程度リアリティはあるのかと思います。

またそもそも我が闘争そのものがヘイトスピーチであり、それはネオナチ如何に関わらず、禁止すべきではないのかという立論があるかとも思いますが、肯定側としては前述の注釈付きという条件を加えた上で、反差別に対する教育のために、ヘイトスピーチとはどういうことか具体的に例示することが認められているように、今回のケースも結果としてナチズムを鎮めることができるのであれば、妥協できるという説明で解消できるかと考えています。

文責: Daichi NEMOTO