THW ban religious street preachers in public.


キャッチとか公共空間での宣伝をはじめとする活動に関するモーションを出したいと思っており、以前にOxford women’s openで同じようなモーションが出ていたのでそこから引用させてもらいました。モーションの軸には、何が公共空間において認められ、何が認められないかという一般的概念が存在しており、そこにそってディベーターは立論していくことになると思います。

肯定側としてできる立論として考えられることは、他者に対し多大な精神的な負担や嫌悪感を与える時に関して認めてはならないというharm to other論理を前提に、宣教活動をそこに結び付ける立論でしょうか。アナロジーとして思いつくのは公然猥褻などでしょうか。これは実害がなくとも、精神的害を理由に制限できる例として利用可能かと思います。

個人的に宣教活動を公然猥褻と結びつけることはあまり褒められることではないかと思いますが、実際、特に日本において、宣教活動された人が気分を害した話を耳にすることが往々にしてあります。

否定側としては、個人の人生設計の為に重要な選択に関する情報の公共の場所における発信においては、精神的負担がある程度あったとしても認めるべきであるという立論ができるかと思います。

理由としてはそれに関する情報や考える機会の欠乏は、選択の幅の収縮、ひいては幸福の減少に繋がるからであり、公共の場所ならば誰でも触れる機会があるといったところでしょうか。アナロジーとして思いつくのは選挙の演説やその活動です。

比較的煩い選挙演説や一般人を引き留めようとする活動は往々にして精神的嫌悪感を誘うかもしれませんが、この情報は個人が自分の意思の代弁者を決める上で非常に重要なもので、人生においてもまた重要なものです。

宗教に関しても同じようなことが言えるのではないでしょうか。例えば、科学的に解決できない死への恐怖や死後の世界へどう向き合っていくか、自らの生き方に新しい価値を付加してくれるなど宗教はそれにしか果たすことのできない役割があり、それが人生設計の上で取り分け重要であることから選挙などと同じように触れる機会を広げるべきであるという説明ができるのではないかと思います。

また、肯定側は、宣教活動が他者に対して実体的問題を与えているケースを前提とした、harm to otherの立論を展開することも可能かと思います。やはりこの立論も申し訳ないことにどうしても宗教が悪者になってしまうのですが、問題として起こっているのは、精神的弱者が宗教勧誘を断り切れず半ば強制的に宗教に入れられてしまうということでしょうか。宗教団体としては金銭的理由や自らの教義に求心力を持たせるために頭数を欲しています。

そのような団体は確実に頭数を稼ぐために、公共の場所に赴き、精神的にやつれていそうな人を狙い、断らせず迫力で押し切るといった手法を行うかと考えられます。公共な場所のため、身を隠すこともできません。

結果として、その勧誘対象者はよくわからないまま宗教に入り、囲われてしまいやめることもできず、望まない時間と金を消費していくといった筋書です。政府として、このような問題を引き起こす活動を認めることできないので禁止するというところに落とすこともできるかと思います。

文責: Daichi NEMOTO